小学生のとき、受験戦争真っ只中でした。
学校では教室が荒れており、教師の言うことを聞かない生徒が
80パーセントの6年生クラス。
学校帰りには塾に行き、周りとつねに比べられながら
勉強内容が理解できないことを存在価値が無いように言われ、
家では塾の勉強についてゆくよう、暴力で強要する両親・・・
特に父。
彼は当時、職場の不満を娘に対する暴力
(殴る蹴る髪の毛を持って椅子から引きずり落す)
で晴らそうとしていたようでした。
言葉でもお前は怠け者だと言われ続けました。
父を殺して、自分も死のうと、本気で思っていました。
父が自分に言うことは、自分以上に
父に当てはまると思っていましたので。
夜中(1時~2時ころ)台所で、包丁を研いだりしました
(絶対失敗したくなかったので・・・)。
自分の手で首を絞めたり、落ちたら死ねそうな所を学校帰りに
捜したりもしました。
父とは別な機会にですが、
やはり私を分厚い辞書で殴って叱っていた母が、
「お前が可愛いからこうするんだ」といって、おお泣きしながら
「殴る自分も痛い」と言っていた事、
時には父との間に入って殴られてくれていたこと。
わたしが死んだら、母は泣くな、と、思いました。
父が死んでも自分はちっとも悲しくない、と思っていましたが、
母に泣かれるのは困ると思いました。
受験は、当然失敗しました(本人に全くやる気が無いのですから)。
私は心からほっとしました。
両親(特に母)が、受験の失敗をきっかけに、自分達の間違い
(娘の望みを読み違えていたこと)に気づいて、路線変更したのです。
しかし、私の自意識が
「死にたい」「消えたい」からはっきり1歩離れたのは、
小学4年から通っていたキリスト教の教会で参加した
中学生の夏期キャンプで、
「神は居る」
「私は神が望んでこの世に生まれたのであって、
生きている意味がある」
ことを聞き、取り敢えずその考え方に賭けてみる気になった時です。
なにしろ、世界には(やりかたはともかく)この考え方を
公式に表明している人(クリスチャン)が一杯居るのですし、
歴史にも影響したほどの考えなら、なにか賭ける意味くらいは
あるかもと思って。
教会生活も続けています。
そして、周りの人に、「賭け」の件を話したりしています。
特に最近、教会に来ている子ども(小学生)が
死のうと思った話をしてくれました。
「あなたが死んだら、少なくとも私は、泣く。悲しむ。
もし、今度、死にたくなったら、
『もし、私が死んだら、あの人は悲しむなあ』と思い出してくれ」
と話しました。
理解してくれたように思います・・・。