23才頃、家庭の事情により、地元で就職することとなり、不本意ながら金融機関に就職したが、よりによって借金の取立ての担当として配属されてしまった。
そこで社会、お金の流れの闇の部分をまざまざと見せつけられた。
ある日、自分が直接関わった人が自殺するというショッキングな出来事が起こった。
その時、資本主義社会では、犠牲者が出ても人間的な感情を捨てねばやってゆけないと痛烈に感じた。
自分の仕事は人を死に追いやっているという罪悪感に苛まれ続けた。
就寝3時間後、突然、遊園地のコーヒーカップに乗った後のような感覚に襲われ目が覚めて、吐く事が重なり、医者に行った。
しかし異常なしと診断され、納得できず心療内科に足を運んだ。
するとはっきり「うつ病」と診断され、薬も三種類処方された。薬の量は徐々に増えていき、仕事への不安から8月末に退職。9月、10月は最悪の精神状態だった。
仕事を辞めても、ますます苦しくなる一方だった。
自分は生きていても意味が無いのではないかと感じるようになり、ここで終わっても悔いは無いなどと考えていた。
かなり生きていく事に限界を感じていたときに
心配してくれていた大学の先輩から地域興し、
町興しのイベントがあるが、参加しないかというお誘いがあった。
現状の危機感を何とかしたいという想いを、
そのイベントに賭けてみることにした。
地域興しのイベントが行われたのは、島根県の隠岐島、海士(あま)町。そこで得たものは自分にとって言葉に尽くしがたいものだった。島の人達から優しさ、暖かさをこれでもかというほど、与えてもらえた。自分が存在している、その事だけを喜んでくれる。何も求めてこないほど嬉しい事はなかった。10月、11月、12月と3回島に通った。地元に帰っていた時のことを思い出せないほど、島が楽しかった。年が明けて程なく、自分がやりたい事が明確になった。自分は幼い時から遠い親戚筋にあたるおじさんから、週2回、食に関する手ほどきを受けていて、美味しいものが人を幸せにすると思っていた。自分が出来ることは、大好きな料理であると、気付いたと同時期に薬にも頼らなくなった。
結果的にフードコーディネーターという職を自分は選択した。食の魅力を伝える仕事である。
フードコーディネーターとして世の中を、日本を変えて行きたいと前向きに考えられるようになった。
それも全ては島の人々の温かさに触れられたことに起因する。
あの島に行ったら、きっと生きる力が沸いて来るはず。自分のうつは、そこでなくなったのだから。